姉帯豊音の能力考察―暦占という仮説―

 以前アニメの感想にかこつけて、六曜の各内容をもとに姉帯さんの能力を整理した。
今回は、では姉帯さんの能力がなぜ六曜なのか?という問題を考察したい。

1)「姉帯豊音=『遠野物語』における山女」の確認

 姉帯さんのキャラクターデザインが山女を基にしたものであるという点は、アニメ全国編での石戸霞のセリフにて示唆され、また原作の時点で既にhannoverさんの考察にて詳しく論じられている。

山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。(後略)*1

 また、その山女に占いのモチーフがあることはかんむりとかげさんの考察にて指摘されている。

上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面朱のようなる人なり。娘はこの日より占の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり*2

山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛村にもあり。本業は木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。(後略)*3

 このように『遠野物語』には山女に関する記述が確認できるが、一方で「六曜」という語句は存在しない。そのためモチーフの推定が難航している。そこで本記事では、『遠野物語』の記述自体ではなく、六曜自体や遠野という地域を掘り下げることで推測していきたい。


2)「六曜」から「暦注」への能力由来の転換

 まず六曜自体について、『日本国語大辞典』→『国史大辞典』の順で確認する。

先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六個の星。(中略)中国の小六壬法が、わが国で変化して六曜となったといわれる。江戸中期から暦注に記されて流行し始め、現在に至っている。六輝*4

日の吉凶説の一つ。六輝ともいう。もと「六壬時課」「起例掌訣」と呼ばれた中国起源の時刻占いに由来する。これは、大安・留連・速喜・赤口・小吉・空亡の六つで、室町時代初めごろに伝えられ、近世を通じて行われた。江戸時代初めごろ日の吉凶に流用され、(中略)江戸時代には『大雑書』などに載るだけで、遊郭や賭場など遊び人や勝負師の間でひそかに行われるだけであったようであるが、暦注が公に禁止された明治六年(一八七三)に民間のおばけ暦に掲載されてより、最も普及する暦注となった。(後略)*5

 これらから六曜は暦注の一種であると解釈できる。

 次に同じように暦注を確認する。

古暦の日付の下に付した注記のこと。注記は二段に分かれ、中段には十二直を、下段には日の吉凶に関する諸事項を記すのが慣例。*6

暦に注記される歳月日時や方角などに関する禁忌。また年中行事や農事などに関する注記をも含めていう。真名の具注暦、平仮名(稀に片仮名)の仮名暦、絵による絵暦などがある。中国では暦の基幹となる歳・月・日やその干支、二十四節気朔望などとともに、諸種の禁忌を暦に注することが早くから行われ、造暦用の『暦経』『暦議』などと一セットで、吉凶を解説した『暦例』や注記の手本となる『暦注』が編纂された。わが国でも中国の暦法の導入とともに中国の暦の体裁が採用された。(中略)注記は、平城天皇の代に一時廃止されたが、弘仁元年(八一〇)に復活し、『九条殿遺誡』にも毎日暦を見て日の吉凶を知るようにと記されるとおり、貴族・武家・僧侶などの生活を規律する一方、陰陽家や医家などの専門家が日時を択申する際に、八卦忌勘文の衰日などや各種陰陽書にみえる雑忌とならんで利用された。(中略)明治六年(一八七三)の太陽暦の採用の際、吉凶類の注記は公式には全廃され、同十六年以降の伊勢神宮司庁の暦でもこれが踏襲された。しかし、民間ではいわゆるおばけ暦が闇出版され、従来みられなかった六曜・九星・三隣亡などが新たに加えられた。第二次世界大戦後自由な編集・出版が許されてからは、各所神社など発行の太陰太陽暦には多くの禁忌が注され、太陽暦のカレンダーにも彼岸・六曜などを残すものがある。*7

 つまり、暦注とは暦を用いた占い(暦占)であるといえ、六曜も占いであるといえる。それも「賭博」という側面*8をもつ麻雀という遊戯に親和的な。山女の占いの一面を小林立先生が能力化する際に、暦占としての暦注→その中の六曜、と採用されたと予想できないだろうか。

 とはいえ、占いの種類は数多く存在するものであり、これだけでは能力の根拠としては弱いかもしれない。そこで占いの中から暦占が選ばれた理由を、遠野という地域から推測したい。


3)遠野と暦―「南部絵暦」の存在―

 遠野の地では、戦後ある程度まで旧暦が用いられていたとの指摘が『注釈遠野物語』にある。

遠野郷での年中行事は、第二次大戦の直後まで旧暦によるものが多かった。明治五(一八七二)年に太陽暦新暦として採用されてからのちの一世紀もの間、新と旧の二つの暦が併用されていた。公的な行事は新暦で、私的なものは旧暦によるのが普通であった。したがって、正月などは家によっては二重に祝っていたのである。*9

 また、遠野やあねかわさんの推測する姉帯さんの出身地である九戸村は、江戸時代においては南部氏が領有していた。その南部氏の領地にて出現した特徴的な暦がある。それが「南部絵暦」である。

「南部絵暦」とは、旧南部藩領を中心として用いられた絵暦、すなわち「田山暦」と「盛岡暦」の総称で、古くは「南部盲暦」と呼ばれた。なぜ「盲暦」と称したかというと、文字を自由に読み書きのできない「文盲者」にも分かるように、絵文字で綴られている暦というところからである。今日では地元を除いて一般に「南部絵暦」と呼ばれている。近代以前には、文字を自由に読めない人々が存在していた。その人々にとって暦は猫に小判的存在であった。しかし、その時代には、暦は今日以上に日常生活の上で必要なものであった。(中略)したがって、文字の読めない人々にとって、どうしたら月の大小や閏月を知ることができるかは重要なことがらであった。それに応えたのが「南部絵暦」である。*10


*11

盛岡暦の最上部は年号とその年の十二支で、年号も絵文字で、(中略)その下の右に大の月と朔日の十二支、左に小の月と朔日の十二支。月の数はサイコロの目を用いる。盛岡暦には、彼岸、社日、節分、八十八夜、夏至三伏等、さまざまな暦注が記載されている。
盛岡暦は復活後も一貫して旧暦の日付を用いていた。これは東北地方では明治以後も昭和30年代までは、農村部を中心として旧暦が広く用いられていたためで、盛岡暦は農家にとって実用性の高いものであった。しかし、その後旧暦使用は急激に衰退したため、その実用性は薄れ、使用されなくなってしまった。今日では、郷土資料として購入される存在である。(中略)
それにしても、江戸時代に南部領だけに絵文字の暦が発行されたことは不思議といってよいであろう。これは、藩が暦の発行や出版に寛容であったことや、当地の寒冷の気候が暦に対する要求を高めたこと、中央の暦の供給が十分に行われなかったことなど、いくつかの原因が考えられる。*12

 この南部絵暦は、その独自性において遠野地域の特徴であるといえ、暦占が姉帯さんの用いる能力として設定される根拠とできるのではないか。また、昭和30年代まで農村部を中心に旧暦も参照して生活が営まれていたという点は、「土地のしばり」の存在するような村の習俗がそうであっても違和感はなく感じる。


4)結論

 ここまで辞典類からの引用を中心に冗長に考察を展開してきたため、要点を整理して結論を示したい。

  1. 遠野物語』から、姉帯豊音=山女=占いの能力を持つ、と読める。
  2. 六曜自体は『遠野物語』には記載がない。だか当時の習俗として暦占は行われていたと考えられ、それには暦注が用いられた。現代に通用する暦注が六曜である。
  3. 旧暦が近年まで利用され、また南部絵暦の存在から、暦(占)に縁のある地域だといえる。

よって、山女の能力=占術:地域性+暦注としての知名度(メタ的に麻雀への当てはめやすさ)→六曜

……という由来なのではないかという仮説が結論。



いかがでしょうか…?なんでも気がつかれた点をご指摘いただけると幸いです。
それにしてもほぼ文献からの引用……(苦笑)

*1:遠野物語』「三」。以降『遠野物語』のテキストとしては青空文庫版(http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html)を用いる

*2:遠野物語』「一〇七」。

*3:遠野物語』「一〇八」。

*4:六曜」『日本国語大辞典

*5:小坂眞二「六曜」(『国史大辞典』吉川弘文館、1993年)。

*6:「暦注」『日本国語大辞典

*7:小坂眞二「暦注」(『国史大辞典』吉川弘文館、1993年)。

*8:「三」で山女を撃った佐々木嘉兵衛は「「嘉平ごかん」と陰口をたたかれるほど有名なばくち打ちであった」(遠野常民大学編『注釈 遠野物語』(筑摩書房、1997年、P54)。)という

*9:『注釈 遠野物語』P311

*10:岡田芳郎『暦を知る事典』(東京堂出版、2006年、P151)。

*11:岡田芳郎『南部絵暦を読む』(大修館書店、2004年)より引用

*12:岡田芳郎『暦を知る事典』P155・P156。